玉造中心部の町並みの中に、武士の時代をしのばせる大塲家住宅が残っています。茅葺屋根の建物がいく棟も並び、白壁黒板の塀がめぐる堂々とした屋敷構えです。

居宅・長屋門・薬医門が県指定有形文化財に指定されています。

 副将軍徳川光圀「水戸黄門」と大塲家
 光圀の小青年期は、自由奔放な生活をしていたようですが、正保2年(1645)18歳で司馬遷『史記』伯夷伝を読み感奮したのが転機となって、私たちのよく知る仁政といわれる領国経営を行うようになったのです。光圀は、社寺改革・上水道整備・金山開発・殖産興業をはじめ、『大日本史』編纂事業や『快風丸』建造並びに蝦夷地調査等の多くの事業を行っています。

 玉造近郷の村々を統括し、藩有林御立山を管理する「大山守」職を世襲した大場家は、光圀が巡見の時に宿泊所としたと言われています。水戸藩に持山を献納した際、光圀から大場家に因んだ地名の改称を受けたり、別に愛用品を下賜されました。

黄門下賜茶碗

 幕末の玉造 〜斉昭と慶喜その時代〜

第9代水戸藩主 徳川斉昭
 光圀からの藩政や文化施策の志を踏襲し、激動する時代に合って世界の動きを的確に把握し、藤田東湖をはじめ、藍沢正志斉、戸田忠敞などの能力を生かし水戸藩天保の改革を断行、幕府改革にもヒントを与えました。

 理想の日本国建設のため、愛息慶喜の将軍世継に奔走するが志し半ばで病に倒れました。

 
第15代将軍 徳川慶喜

 水戸藩9代藩主斉昭の七男として江戸で生まれ、少年期まで水戸で過ごし、こうどうかんで文武の修行に努めました。

 その後、一橋家を相続、将軍後見職、禁裏守衛総督等を歴任、慶応2年30歳で15代将軍となったが翌年大政奉還をしました。

 日本の近代を作った知性と有機の指導者です。
 揺らぐ幕末の玉造地区
 勤王の志士たちが日本中を駆けめぐった時代、玉造地方も新しい時代を生み出す苦悩の中にありました。
 玉造にはそんな時代を生きた人々の足跡が静かな佇いの中で語りかけています。
 水戸藩の穀倉地帯であり、江戸水戸屋敷物資の供給地としても拠点であった玉造は、社会経済面ばかりでなく教育文化や政治的にも重要な地域であった。そして、玉造地方の多くの民衆が不透明な日本の変革期に身をあずけていました。

大山守 大場伊三郎

 第9代水戸藩主徳川斉昭は、第2代の光圀同様玉造地区と深い関わりを持っていました。就藩の際には玉造地区に訪れ、湖上での軍事演習をするとともに、大場家に宿を取り和歌を詠んでいたのです。

 『安政の大獄』の犠牲者頼三樹三郎は、柴田勝家の末裔の営む塾庵『霞浦軒』を宿に玉造地方の若者たちと語りました。松下村塾の吉田松陰もまた水戸への旅すがら玉造を訪れ、日記に芹沢村の郷稗蔵を書き記しました。

 大老井伊直弼との政争に敗れた徳川斉昭の雪冤運動に参加した玉造の医師関口秀南は、その息を引き取る場にいました。そして、秀南は斉昭の第7子で徳川幕府第15代将軍徳川慶喜が少年期に学んだ弘道館で教鞭をとていました。

 幕末の水戸藩抗争の天狗派の軍事訓練所となった玉造郷校「文武館」。戦国時代の玉造城の落城を経て江戸時代には水戸藩となった玉造地方の人々の暮らしと心を見続けてきた大山守大場家一門。

玉造郷校「文武館」跡

 
 玉造大宮神社境内の忠魂碑には天狗党の一員として慶喜に会えず越前敦賀で無念の死を遂げた人々の名が記されています。

 すばらしい明日の日本を築こうとしてい燃え尽きた人々の心は、今も玉造の地で温められています。

 “斉昭と慶喜 その時代”を語る玉造の小さな旅がまさに始まろうとしています。
天狗党供養碑
 

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